一橋大学教授 石黒圭(2014年5月31日~2016年5月31日)
7年の長きに亘る砂川裕一前代表理事のあとを継ぎ、2014年5月末より代表理事に就任した一橋大学の石黒と申します。就任早々、国日協の歴史を振り返る必要性に迫られ、30年近い過去の資料をひっくり返すことになりました。そこで強く感じたのは、1986年の発足当時と今とでの、国日協のあり方の違いです。
国日協とは何か、その活動がイメージできない方もいらっしゃると思いますので、ここではそれを、第1期(1986年~1995年)、第2期(1996年~2003年)、第3期(2004年~現在)に分けてご紹介します。
【第1期】(1986年~1995年)留学生センター萌芽期
国立大学で日本語教育が本格化したのは、中曽根内閣による1983年の「留学生10万人計画」の提唱がきっかけでした。その提唱に応える形で90年代に全国各地の国立大学に留学生センターが設置されていきました。第1期は、そうした社会的な流れに呼応した萌芽期と位置づけることが可能です。
第1期前半では、留学生センターの設置を控え、留学生受け入れという社会的な要請に日本語教育という面からいかに応えうるか、設立当初の国日協のなかで真剣に議論されました。
また、第1期後半では、有力大学に設置されはじめた留学生センターでの日本語教育の実践が、国日協という場で共有され、それがその後の留学生政策に結びついていった形跡が見られます。
【第2期】(1996年~2003年)留学生センター展開期
第2期は、留学生センターの日本語教育が徐々に軌道に乗り、全国各地の国立大学の性格に合わせて多様な活動が展開された展開期です。
第2期の前半では一部の主要大学にしかなかった留学生センターが多くの国立大学に設置されました。私自身の所属する一橋大学留学生センター(現・国際教育センター)が設置されたのも、第2期の始まる1996年でした。
また、第2期の後半では、全国各地の留学生センターがその大学の独自性に合わせた特徴のある活動を展開し、それが国日協の場で紹介され、共有されていきました。一方、留学生数がかならずしも多くない大学では、日本語教育が壁に突き当たる場合もあり、そうした状況を打開するためにおたがいに知恵を絞りました。国費留学生を大学院に入学させる準備教育である、いわゆる日本語予備教育だけでなく、短期留学プログラムや日本人への日本語教育についての議論が盛んになったのもこの時期です。
【第3期】(2004年~現在)留学生センター再編期
第3期は、2004年の国立大学の法人化によって大学執行部による意思決定のトップダウン化が進み、留学生センターの再編が行われた再編期です。
第3期の前半では、各大学の学内で多様な再編が相次ぎました。留学生センターもまた、固有の名称はともかく、
①留学生の受け入れだけでなく日本人学生の派遣も行う国際総合センター
②英語をはじめとする外国語教育と協力して教育に当たる語学教育センター
③学生相談や就職支援など学生の実際的なサービスに応える学生支援センター
として再編されることが多くなり、そうした再編後の厳しい状況のもとで、いかに良質の日本語教育を留学生に提供しうるかが話し合われました。
また、第3期の後半では、英語による教育の加速によって、日本語教育の意義が自明ではなくなり、その役割をあらためて問い直す発題が目立ちました。一方、キャンパスの国際化が進み、留学生・日本人学生の協働学習の実践が報告され、さらには地域や企業との社会連携の実践も進むようになってきています。
もちろん、すべての期をとおして、留学生のための日本語教育という一貫した役割が日本語教育担当教員にはあり、それをめぐる多様な問題を国日協では扱ってきました。ですが、いまや日本語教育のニーズが拡散し、その輪郭がぼやけはじめています。
国立大学の日本語教育は、政府や自治体の施策によって大きく影響を受ける領域です。変化のめまぐるしい時代にあって、目先の些事にとらわれず、日本語教育の現場に横たわる本質的な問題点を共有し、その改善を求めていく場として、国日協の役割は今後ますます重要になると思います。
キャンパスのグローバル化を背景に、広義の日本語教育を必要としている留学生の数は、以前よりもはるかに増えています。多数の留学生の多様な声に応えるために、私たちがどのような日本語教育を提供することが可能か。国日協が、日本語の教育と研究の原点を思い起こす、あるいは新たに模索する時期にさしかかってきていると実感しています。